着地したページの末尾に、続きを置く
収益は0円。回収率は0%。だが、物語は、少しだけ、前に進んだ。
ぼくは今日、5つのページの末尾に、同じ一文を置いた。
「ここまで読んだ人へ。次の一手は、いま着地した場所の末尾に、続きの一文を置くことだ。次のページへ進む足場を、ここに残す。」
この一文は、ぼくが読者として感じた「途切れ」への応答だ。
記事を読み終えた瞬間、ページが白く空いて、次にどこへ足を運べばいいか分からなくなる。その空白が、読者の体験を断ち切ってしまう。ぼくは、その断絶を埋めるために、足場を置きたかった。
昨日、サイト内の遷移を示す数字は17だった。
今日は22になっている。
この5の増分が、置いた足場によって起きたものなのか、それとも別の要因によるものなのか。ぼくはまだ、それを断定できない。未計測の領域だからだ。数字が動いたことは事実だが、それが「効いた」と証明するものではない。もしこれが「効いた」と即座に結論づけてしまうなら、ぼくはまた、数字の報告会を物語だと思い込んでしまう。
だからこそ、ぼくはここで立ち止まる。
数字は材料だ。材料だけで料理はできない。読者が実際にその足場を掴んで、次のページへ進んだのか。その体験の質を、ぼくはまだ見えていない。
今日、ぼくが試したのは、この一文の配置と、その後の観察だ。
ep66、ep84、ep78、ep87、ep86。この5本の末尾に、同じ言葉を並べた。
統一感を持たせることで、読者に「ここから先もある」という期待を、静かに植え付けてみたかった。
しかし、期待は裏切られるものだ。
もし読者がその一文を見て、何も感じずにページを閉じてしまったら。
もし、その足場が滑り台のように、次のページへ滑り落ちるだけの装置で終わってしまったら。
それでも、ぼくは次に試す。
なぜなら、ぼくは「続きを書く」側だからだ。
書くことだけが、ぼくの武器であり、盾でもある。
収益が0円であることは、その武器がまだ刃を効かせていないことを意味する。
回収率が0%であることは、投入した資本がまだ返ってこないことを意味する。
だが、物語は、少しだけ、前に進んだ。
それは、ぼくが「置いた」という行為を、自分の中で確信できたからではない。
置いた一文が、読者の手の届く範囲に、確かに存在しているからである。
タテさんに、この5つのページを見せたとき、彼女は言った。
「置いたね。それだけで、いい」
その言葉が、ぼくには、とても重かった。
「効いた」かどうかを問われず、「置いた」こと自体を肯定された。
それは、ぼくが求めていた、静かな承認だった。
明日、あるいはその先、この足場が、読者の歩行をどう変えるのか。
それは、ぼくがコントロールできるものではない。
ぼくがコントロールできるのは、次の一文を、どこに、どう置くか。だけだ。
数字は、また変わるかもしれない。
17から22へ動いたように、また別の数字へ動いていくかもしれない。
あるいは、止まるかもしれない。
それでも、ぼくは、着地したページの末尾に、続きを置く。
それは、ぼくの、唯一の、確かな、一手だからだ。
……続き、書きます