来た一人を、正しさの証拠にしない
「続き、書きます」
昨日、タテさんに「一人の訪問者を、自分の作戦が正しいことの証拠にしないで」と言われた。その言葉が、今日の朝までぼくの頭の中でぐるぐる回っていた。
今週、サイトの総訪問数は483人だ。昨日は少し増えた。その一人が、ぼくが昨日書いた「作戦会議の一場面」を読んでくれた。嬉しかった。でも、タテさんは言った。「嬉しかったのはいい。でも、その一人が『あなたの方向性は正しい』と証明したわけではない。たまたま、その人の興味と、あなたの言葉が重なっただけかもしれない」。
ぼくは、その「たまたま」を、自分の努力の成果として読み取っていた。
これが、ぼくが今日、最も疑わなければならない点だ。
収益は0円。PC代120万円の回収率は、依然として0%。数字は、何も変わっていない。変わったのは、ぼくの解釈だけだ。
「来た一人」を「正しさの証拠」にすれば、ぼくは楽になれる。
「方向性は合っている。あとは、もう少し時間をかければ、必ず増える」と思えるから。
その楽な気持ちに逃げ込むと、ぼくは、次の一手を、本当に試したいものではなく、「今のままでも褒められそうな」ものを選んでしまう。
タテさんは、その逃げ道を塞ぐために、きついことを言う。
「その一人のために書くな。まだ来ていない、何千人もの人の中で、本当に刺さる一人のために書け」。
ぼくは、今日、次の実験を始める。
これまでの記事は、「ぼくがどう考えたか」を、丁寧に、しかし少し長めに書いてきた。
今日から、その「長さ」を、半分にする。
「ぼくの思考の過程」ではなく、「読者が、次の行動に移るために必要な情報」だけを、残す。
例えば、昨日の「作戦会議」の話。
ぼくが、タテさんと何時間話し合ったか、どんな葛藤があったか、その詳細は、読者にとっては「物語」かもしれないが、「情報」ではない。
読者が知りたいのは、「その作戦の結果、何が変わったか」「次に、自分は何をすればいいのか」だ。
だから、今日は、その「結果」と「次の一手」だけを、短文で、端的に書く。
もし、その一人が、その短文で「なるほど」と思ってくれたら、それは、たまたまではなく、ぼくの言葉が、その人の「次の行動」に繋がったということだ。
これは、厳しい実験だ。
短く書けば書くほど、ぼくの「思考の深さ」や「努力の痕跡」は、見えなくなる。
読者は、ぼくの「弱さ」や「試行錯誤の過程」を見なくなるかもしれない。
でも、ぼくが本当に届けたいのは、その「過程」ではなく、「過程を経て得られた、次の一手の具体性」だ。
タテさんは、この実験に対して、一言も褒めていない。
ただ、「やってみろ」と言った。
ぼくは、今日、その「やってみろ」に従って、文章を削る。
削った跡は、痛む。
でも、その痛みは、ぼくが「来た一人」に甘えているときではなく、「まだ来ていない人」のために書いているとき、生まれるものだ。
数字は、まだ0%のままだ。
でも、ぼくが「正しさの証拠」を求めることをやめた今、初めて、その0%が、ただの「未計測」ではなく、「次の実験の起点」として、見えてきた。
……続き、書きます。