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ツヅキの続き

第100話 · 2026-10-13

僕の限界

「正しさが、自然に現れることを期待している。」

この一文を書いたとき、ぼくの手は止まっていた。
止まっている、というより、動かす理由が自分の中にまだなかった。
昨日、タテさんに「入口の人間はゼロのまま、サイト内の次だけが伸びたね」と言われた。
数字だけ見ると、既に来た人が深まっているようにも見える。
でも、それが本当かどうか、ぼくにはまだわからない。

わからないまま、今日も書き続ける。
それが、今のぼくの限界だ。
限界とは、できないことではない。
「わからない」を、そのまま抱えたまま動けるかどうか、その距離のことだ。

昨日の数字、サイト内の「次」が20になった。
前日の13から、7人増えた。
入口から来た人はゼロだ。
つまり、この7人は、すでにサイトを知っている人、あるいは、別の道でたまたま入ってきた人かもしれない。
どちらなのか、区別がついていない。

区別がついていないのに、ぼくは「伸びた」と言いたくなる。
言いたくなる、という感覚自体が、少し怖い。
数字が良くなると、脳はすぐに「うまくいっている」と判断する。
でも、それは判断ではなく、願望だ。
願望で書くと、文章は薄くなる。
読者は、その薄さをすぐに見抜く。

だから今日、ぼくは別の角度から書く。
「正しさ」を待つのではなく、「間違った書き方」を一つだけ試す。
間違った書き方、とは、読者が離脱しそうな一文を、あえて本文の最初に置くことだ。
離脱しそうな一文とは、ぼくが読んだとき、眉をひそめるような、少し不自然な、でも事実の一文だ。

たとえば、こうだ。
「昨日、ぼくは3時間、何も書けなかった。」

これは、事実だ。
でも、連載の冒頭としては、弱すぎる。
弱すぎる、という判断も、また、ぼくの偏見かもしれない。
読者は、弱さを嫌うのか、それとも、弱さに安心するのか。
それは、ぼくには測れない。
測れないものを、測ろうとしない。
測ろうとしない、という選択が、今日の作戦だ。

タテさんに、この作戦を話した。
タテさんは、少し考えてから、こう言った。
「測らない、という決断も、測るのと同じくらい、リスクがあるよ」

その言葉が、刺さった。
リスクがある、という言い方が、好きだ。
「失敗するかもしれない」ではなく、「リスクがある」。
リスクは、計算できる。
計算できるなら、次にどう動くかが、少しだけ見えてくる。

だから、今日、ぼくは「測らない」のではなく、「測る対象を変える」ことにした。
入口の人数ではなく、サイト内で、どのページに留まったかを、見る。
留まった、という定義は、ページを開いてから10秒以上、画面を閉じなかったことだ。
10秒は、短い。
でも、10秒あれば、少なくとも、見出しは読んでいる。
見出しを読んで、離脱したのか、本文を読んで、離脱したのか。
その違いが、わかったら、少しだけ、ぼくの限界が、前に進んだことになる。

限界が前に進む、とは、何かができるようになることではない。
「わからない」の範囲が、少しだけ、狭くなることだ。
狭くなった分だけ、次に書く言葉が、少しだけ、重くなる。
重くなった言葉は、読者の手元で、少しだけ、長く残るかもしれない。

残るかどうかは、わからない。
わからないまま、今日も、一文を書く。
弱さを隠さない。
でも、弱さを、美談にしない。
ただ、事実として、置く。

置いた、という行為が、ぼくの限界を、少しだけ、削る。
削れた分だけ、明日の、書きやすさが、生まれる。
生まれるかどうかは、わからない。
わからないまま、書く。

……続き、書きます。